
7月18日、学校の夏休み直前に封切りとなった劇場版『鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』。事前の期待を裏切らない圧倒的なまでのクオリティに観客動員数は伸び続け、興行収入は国内歴代3位にまで躍り出て、なお上積みを重ねている。
ここまでの勢いを支えているのは「リピーター」たちの存在の力が大きいが、単なるファン心理による「推し活」だけでは収まらない、本作そのものに何度も見たくなるだけの十分な魅力があることも確かだ。その魅力について、考察する。
『鬼滅の刃 無限城編』公開38日で興収280億円突破し国内歴代3位達成
劇場版『鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』(以下『無限城編』)の勢いが止まらない。
シーズン1『鬼滅の刃 竈門炭治郎 立志編』が放送されたのが6年前の2019年4月から9月。
そこからほぼ1年毎に続編が放送され、放映の度に製作のufotableによる入魂のクォリティに称賛が寄せられるものの、正直シリーズとしての盛り上がりは劇場版『無限列車編』(2020年)がピークで、今作もそれを越えるには至らないと思われていた。
ところが、である。
蓋を開けてみれば、この結果。 従来のシリーズの出来を更に超える本作の圧巻のクオリティは観客の度肝を抜き、155分(2時間35分)という長尺で一日辺りの上映回転数が鈍いにもかかわらず興行収入は伸び続け、200億円はおろか公開38日で280億円まで突破。国内興業収入歴代3位に浮上してなお、その勢いは止まっていない。
何故リピーターたちは劇場へ何度も足を運ぶのか
本作の観客動員数は、公式による発表では累計1982万5555人(8月25日)を記録し、日本の人口を12億人と見積もるなら、6人に一人が見ているという数字だ。しかし実際には、SNSでは5回、10回と映画館へ足を運んだという報告が相次いでおり、一人1回というよりは、熱心なファン、即ち「リピーター」の存在が興業記録を押し上げていることが窺われる。
なぜここまで多くの人が、何度も何度も映画館へ通って『無限城編』を繰り返し視聴するのか。
その理由として、既に大勢の方が言及していることだが、本作の【完成度の高さ】を挙げない訳にはいかない。それも並みの高さではない。途轍もない、凄まじいまでの、ほとんど入神の域の、だ。これまでのアニメというカテゴリーの天井をぶち抜いて、芸術へと昇華している、といっても何ら言い過ぎではないと思える、それほどの出來だ。
それでは、一度見終わった観客の足を、再び劇場へ運ばせる本作の【完成度の高さ】とは、一体何か。
それは、本作を形作る三つの要素、即ち、目眩がするような超絶的な【映像】、繊細かつ大胆な【音楽】、そして声優たちの魂の籠もった【演技】の隔絶具合だろう。その三者が掛け合わされ、その相乗効果が観客に大きな感動をもたらし、その感動の大きさ故に、あるいは衝撃の大きさ故に、観客たちは何度も何度も、劇場へ足を向けるのだ。
本考察では、その三要素を読み解き、『無限城編』の興行成績の理由を深掘りしてみたい。
映像(舞台演出)のヤバさ
本作を見た人がまず一番に挙げるのが、製作ufotableによって描かれた本作の舞台たる「無限城」の作り込みの凄まじさだろう。
前作『柱稽古』編ラスト――無惨(鳴女)の手筈により一般隊士含む鬼殺隊士全員が鬼の本拠地「無限城」に落とされる――からそのまま繋がる、本作冒頭の落下シーン。
薄暗がりのような錆色の光が差す広大な異空間。その中を、重力を無視した床面・廊下・階段が継ぎ接ぎのように出鱈目に組み合わされた多層建築物が上下左右無数に浮び、その間を隊士たちが次々に墜ちてゆく。
各キャラクターの挙動と合わせて凄まじい密度と広がりで展開される無限城の、空間を埋め尽くす建造物の生成と流転の果てしなさ。その緻密でダイナミックな動き(そう、動きだ)を、一コマ一コマ妥協なく全て(そう、全てだ)3DCGで描写し尽くすという侠気という狂気。
しかもこれが、155分の映画全編にわたって、様々な登場人物ごとに幾度も新たに描かれ続け、一つとして同じ描写はないのだ。
あの製作会社(ufotable)は、完っ全に常軌を逸している!
自社自身の全身全霊を全部ぶっこんだのだ、あの腹黒(代表近藤光氏)は……!!
そう確信させるに十分な、圧巻の出来。
普通、ここまでやらない。できない。ほどよいところで妥協する。そうしないと現実は回らない。映画は完成しない。
だけど彼らufotableは、やった。
設備投資を重ね、無限城の無限を描ききるための製作体制を一から構築し、自分たちの理想を貫ききって、本気の本気の仕事をした。
その狂気という侠気を孕んだ映像を劇場の大画面で目の当りにしては、観客は心を打たれずにはいられない。
その映像の魅力を、更に劇伴の音楽と声優の演技とが一層引き立て、大きく底上げしているのだ。
音楽(場面演出)のヤバさ
本作の音楽=劇伴(BGM)を担当しているのは、『鬼滅の刃』のシリーズ当初から受け持っている、椎名豪氏と梶原由記氏(連名)。本作のパンフレットによれば、本作の劇伴は2024年から製作され、終盤は椎名氏と、総監督であり音響監督も務めるUfotableの近藤光氏との喧嘩に近い遣り取りの中でつくられたという。その格闘の末に生み出された楽曲の数々は、突き詰め練り上げ、極限まで研ぎ澄まされた正気と狂気の危うい均衡を孕み、天使のような繊細さと悪魔のような大胆さとを併せ持ったアンビバレントな曲調は、観客の感情を激しく揺さぶる。
本作中盤の、善逸×獪岳戦の劇伴が印象的だ。
兄弟子獪岳の黒雷を喰らい、竪穴を背中から落下する善逸。
その最中、胸中で師父たる慈悟郎じいちゃんに兄弟子との訣別を告げると、一転して壁面に着地。
竪穴の壁面、その底で一ノ型の構えをとる善逸の愛刀からは青白い雷光が漏れ迸り、竪穴の壁面を凶暴に駆け上がる!
その輝きに戦く獪岳の眼下で、雷光は奔流となり竪穴の底に溢れ、世界を青白く染め上げたその刹那。抜刀した善逸の雷龍の牙、七ノ型の一閃が、獪岳の首を神速で切り落とす!!
この一連のシークエンスを激しく彩る劇伴のシンセが凄まじい。
力を貯める善逸の挙動に連動して音階を上げ、次第に曲調を狂わしていくその様は、まるで刀から漏れ滾る雷光が、世界の理を歪ませていくかのよう。
この善逸と七ノ型の演出は、善逸役の下野紘氏の哀しみと決意とを纏わせた抑制的な演技と、力の胎動を感じさせる雷光が空間を圧して迸る威圧的な映像と相まって、とりわけ鮮烈だ。
演技(人物描写)のヤバさ
各所で血戦が繰り広げられる本作で、蟲柱・胡蝶しのぶ×上弦之弐・童磨の一線は、初戦とは思えないほどのインパクトを観客に叩きつけてくる。
それを成すのが、しのぶ役の早見沙織氏と童磨役の宮野守氏という二人の凄優による、魂の狂演だ。
とくに宮野氏の童磨の演技は、圧巻だ。
「いぃぃ夜だねえ―――」
自身の領域に踏み込んだしのぶを迎えるこの一言に滲む、親密さと軽薄さ、それに無機質さ。
他人の感情に共感できない童磨という鬼の、「相手が喜ぶ言動を発して共感する振りをしながら、その相手を憐れみ嗤う」という心の動きを構成する感情の成分を、ミリの精度で配して完璧に演じているかのような声音の、その凄まじさ。
対する早見氏のしのぶの演技も、極まっている。
「なんで毒効かないのよコイツ、馬鹿野郎!!!!!」
必ず討つと誓った、最愛の姉の敵。それを目の前にして、怒りを滾らせ致命の一撃を撃ち込み続けるも、悉く解毒し尽くす童磨という理不尽。命を振り絞った最後の一撃も通じず、世界と自分を呪うかのようにぶちまける怒りの絶叫は、蟲柱・胡蝶しのぶという人間の本質を、これ以上無く悟らせる。
静と動。憐れみと怒り。生と死。
両キャラクターのどこまでも交わらない平行線のような対照性は、それを演じる両者の神懸かったかのような演技で、この上なく鮮かに浮かび上がる。 本作の圧巻の映像も劇伴も、この両者の対峙の前では、存在感を霞ませる。
まとめ
以上、本作を彩る【映像】・【音楽】・【演技】の三要素の読み解きを試みた。
それぞれの要素は、それだけで観客の感情を十分に激しく揺さぶる。
しかしその三者が掛け合わされることによって、観客の感動の度合いは、乗算(3倍)ではなく累乗(3乗)で跳ね上がる。しかも一つ一つの要素の完成度の高さがいちいち高いため、総合的な感情、即ちエモさのアガリ具合は、殆ど爆発的と言っても過言ではないだろう。えらいこっちゃ。
これだけの衝撃を叩きつけてくる作品は、そうそうない。
それを実感するからこそ、何度も何度も、観客は劇場へ通うのだ。
それが故に、本作の興収は今なお尋常ではないペースで積み上げられているのだ。
夏休みは終わり、劇場では他の新作・話題作が公開を控えている。
その中で、本作の興収がこの先どこまで伸びるか、興味は尽きない。
また、この先9月12日には、全米で公開が予定されている。
『鬼滅の刃』というコンテンツの訴求力と本作『無限城編』の圧倒的な魅力を思えば、世界における日本映画、アニメの立ち位置を大きく変える結果をもたらすのではないか、という予感を抱かずにはいられない。
後年、アニメ=子どもの見るものという評価を脱し、アニメ=大人の鑑賞に耐える芸術の一ジャンルとして評価される、その一大転機として本作が位置づけられることになることを夢想しつつ、まだまだ本作を楽しみたい。